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paradigmaのブログ

極私的雑記帳または思考の中間貯蔵施設

Accounting for conduct

時代のキーワードは承認欲求だと言う。それに囚われているのはいわゆる「意識高い系」の人たちばかりではない。SNSで飛び交う多くの「私の出来事」は、果てのない自分探しの旅の、まだ形を与えられる段階まで辿り着くこともなく藻屑と消えた意識の断片のように感じられる。まだ見つからない自分。でも「私」を、人には認めてもらいたい。

例えばリア充をアピールしたい人たちは、自分の持っているアクセサリー自慢に走る。自分はこんな有名店で食事をした。こんな大物とFacebookで友達だ。こんな最新スポットを知っている。俺はこんなにヤバい連中と知り合いなんだぞ…

でも、君は一体どこにいるのだ。君がその素敵な持ち物や、一見、充足した暮らしの証であるかのような数々のエピソードを手放した時、そこに現れる君はいったいどんな顔をしているのだ。裸の君自身について、君は何が語れるのだ。

そう言うお前さんはどんな人生を生きているのか?それは人に大手を振って見せられるようなものなのか?少なくとも語るに足るだけの生き方をしているのか?

そう問われたら僕はこう答えるだろう。
行為の評価は別にして(それは時代や文化圏で形を変えるものだから)、自分が蒔いた種の責任は自分でとる。自分が引き起こしたことを他人のせいにしない。自分の尻を自分で拭けないことほど、人として恥ずかしいことはない。今ある自分の姿は、それまでに自分が選び取ってきた選択が積み重ねられた結果だ。今の自分が惨めに見えるなら、それまでに歩いてきた道を冷静に眺めてみることだ。その道を選んだのは他ならぬ自分自身。そのことに向き合わないで、誰かのせいにして、誰かに助けてもらおうとする。それが叶わないとその誰かを責める(これを俗に逆ギレと言う)。原因に向き合うことなく結果だけを嘆き、自分の外のどこかに、そうなった理由を求めようとする。これではどんなに強がっていても、ママの庇護なくしては何一つ出来ない幼児と同じじゃないか。

自分が人に認められたければ、まず自分の行動の責任は自分でとれる人間になることだ。リアルの人生はそんなに簡単に「いいね!」を押してはくれない。これは僕のポリシーであるだけでなく、他人と向き合う時の最低限のマナーだ。話をするのはそれからじゃないか。