paradigmaのブログ

極私的雑記帳または思考の中間貯蔵施設

Obsession

僕の使っている都心のターミナル駅はホームが櫛形になっており、電車のドアは両側が開く。降車専用ホームの上り階段はふつう人が登って来ることはあまりないので、その狭い階段を僕はその日も逆走して階下に向かっていた。すると降り切る直前に人が登ってきた。逆走しているのは僕の方なので僕は壁に貼りつくように道を空けた。するとその人も体を斜めにし軽やかに身をかわした。おかげで僕らは互いに立ち止まる事なく、往来の邪魔となる事もなく、すれ違うことができた。

昔はこんなふうに阿吽の呼吸で街を歩けることがもっと多かったような気がする。自分が年をとったのか、それとも人込みの密度が増したのか?僕はそのどちらでもなく、人々の寛容度が低下しているためじゃないかと思っている。電車でドアの前に身を構えて、人の流れに逆らってでも動こうとしない人。そのポジションはその人の占有物ではないのに、いったん手に入れた場所を頑なに手放そうとしない。

物理的なことばかりではない。一度頭をよぎった思考に支配され、他の考えや可能性を一刀両断に切り捨ててしまう。どう考えても合理的でないけれど、その考えに居座られ、縛りつけられ、自分自身が蜘蛛の巣にかかるが如く絡めとられてしまう。その固執ぶりは周りの人たちにとって迷惑この上ないことだ。本人は、囚われている自覚がないが故に、抜け出す手段を発見できない。その必要にも決して思いが及ばない。無自覚に(当然の権利と言わんばかりに)人を傷つけ、それはエスカレートするばかりだ。

自分のことは認めてもらいたい。でも他人のこと〜相手の気持ち、立場、さらには尊厳〜を認めるなんていうオプションは、そもそも思考回路の中に存在しない。自分は初めから絶対的な王様なのだ。何の因果か、そんな人物から逃れられないとしたら、一体どうしたらいいのだろう。なんでいつも僕ばかりが道を譲らなければならないのだ。理不尽な人間関係が固定化すると抗う気力さえ奪われてしまい、深く暗いトンネルの中にひとり置いてきぼりにされた気分になる。