paradigmaのブログ

極私的雑記帳または思考の中間貯蔵施設

A keyword

何故僕はそんな個人的な作業を、不特定多数に開放されたサイバースペースの中で行おうと思ったのか。それは多分、僕もまた、承認欲求に囚われた多くの現代人のひとりであるからだろう。

同時に僕はこれをプロットのない小説にしようと考えている。設計もオチもない小説とは実に無責任な代物だ。でも小説であるからには読者が必要だ。目的地のある散歩ではなく、あてのない徘徊に付き合ってくれる読者とはなんと奇特でありがたい存在なのだろうと思う。

でも巻き込んだ以上は、読むことに費やした時間を無駄にしないだけの価値は持たせたいと思う。行為に意味を見つけたい、あるいは出来事に必然性を感じたい、僕はきっと古いタイプの人間なのだ。

Knowing who I am

僕はなぜここに文章を書いてみようと思い至ったのか。それは多分、これを読んでもらいたいと思う人が現れたからだ。僕はいくつものパーソナリティを使い分けながら生きている。職場の同僚は職場での僕しか知らない。家族は、彼らがそうあって欲しいと願う姿を僕に投影して、それを僕だと信じ込もうとしている。趣味仲間Aはさらにもっと限定された僕の顔しか知らない。趣味仲間Bも、Bという共通の世界の住人としての僕しか知らない。だから、誰ひとりとして、統合された一個の人間としての僕を知る者はいないのだ。

Facebook で友達を検索するが如く僕に関するキーワードを書き上げていけば、僕という人間は程なくして特定されてしまうだろう。けれどそれでは困るのだ。何故ならば僕はそこまで単純な世界を生きていないから。統合された僕を知った瞬間、多くの友人や親しい人達は彼らが知らなかった僕の違う姿〜その多くは意外であり、彼らの期待に背くものであるだろう〜に気付き、落胆するかもしれない。

そんなリスクを冒すことにはなるのだけど、僕はここに思いを吐き出すことを決めたのだ。僕の背中を押してくれたあなたのために。そして見栄っ張りで偽善的で、でも善きものの存在を信じたい僕という人間の本性を、肉体から遊離した魂の如く、高い地点から観察してみるために。