paradigmaのブログ

極私的雑記帳または思考の中間貯蔵施設

Unfulfilled desire

ニューヨークに向かう機内で、ちょっとだけ恥ずかしい話をしよう。
僕は傷つくのが苦手だった。あるいは、少し正確に言えば、傷ついた惨めな姿の自分を見るのが、嫌だったのかもしれない。

だから、引くのはいつも自分だった。わかりやすい例えは恋愛だ。好きな人がいても、思いを告げて断られるのが嫌だから、自分の気持ち自体を封印してしまう。

だけどそれは無理矢理押し殺しただけで、消えてなくなったわけではないから、僕はその思いを成仏させるための喪の作業をしなければならない。

僕の場合それは、転嫁だった。別のことに没頭し、沸騰し圧力が高まった蒸気に他の使命を成就するという、新しい役割を与えてやる。

そんなふうにして、僕は曲を作り、旅に出てものを書き、あるいは仕事に取り組んだ。沸騰した蒸気には水の時にはなかった力がある。それを利用してタービンを回せば発電ができるように、エネルギーを別の形で活用しようとした。

今となっては、果たされなかった情念があったからこそ、今の自分があるんじゃないかとさえ思う。

もちろん、押し殺された思いの中にはそんなふうにきれいに成仏できなかったものも多い。それに対しては僕は忘れることにしている。

積極的に忘れる。これは割と意識して身に付け、以来とても役に立っている、ある種の技術だ。

その思いには、果たして実現させるだけの価値があったのか、考える。思いというのは言葉を変えれば欲望であるから、本質的に自分目線であり、自分の利益に繋がるものだ。本当にその思いは相手のためにもなることなのか?思いを遂げて得られるものは、自分のための小さな満足に過ぎないんじゃないか。

相手という要素を持ち込んで考えてみると、思いの輪郭がはっきりしてくる。それを、どんどんズームバックして眺めていく中で、ここまで引いたら忘れられるというポイントが見えてくるのだ。

翻って、自分の思いが絶対的に大切で、それを遂げることしか念頭にない人たちがいる。その思いは彼らの中で何ものにも優越する権利を与えられ、欲望は無条件に正当化されている。

彼らもまた、傷つくことが怖いのだ。その点は僕と一緒だ。けれども、思いは時に実を結べないという現実も知らなければならない。

自分がかわいいから自分の欲望を前面に打ち出す。でもその思いには相手があって、社会という広がりの中で行われることであるならば、自分一人の都合だけで世界は動かない。

そういう人に出会ったならば、いったん立ち止まり、あたりを見回して、何者かに囚われている自分の姿に気づかせてやらねばならない。

自分の欲望だけが優先されるほど、世の中は甘くはないのだ。

Accounting for conduct

時代のキーワードは承認欲求だと言う。それに囚われているのはいわゆる「意識高い系」の人たちばかりではない。SNSで飛び交う多くの「私の出来事」は、果てのない自分探しの旅の、まだ形を与えられる段階まで辿り着くこともなく藻屑と消えた意識の断片のように感じられる。まだ見つからない自分。でも「私」を、人には認めてもらいたい。

例えばリア充をアピールしたい人たちは、自分の持っているアクセサリー自慢に走る。自分はこんな有名店で食事をした。こんな大物とFacebookで友達だ。こんな最新スポットを知っている。俺はこんなにヤバい連中と知り合いなんだぞ…

でも、君は一体どこにいるのだ。君がその素敵な持ち物や、一見、充足した暮らしの証であるかのような数々のエピソードを手放した時、そこに現れる君はいったいどんな顔をしているのだ。裸の君自身について、君は何が語れるのだ。

そう言うお前さんはどんな人生を生きているのか?それは人に大手を振って見せられるようなものなのか?少なくとも語るに足るだけの生き方をしているのか?

そう問われたら僕はこう答えるだろう。
行為の評価は別にして(それは時代や文化圏で形を変えるものだから)、自分が蒔いた種の責任は自分でとる。自分が引き起こしたことを他人のせいにしない。自分の尻を自分で拭けないことほど、人として恥ずかしいことはない。今ある自分の姿は、それまでに自分が選び取ってきた選択が積み重ねられた結果だ。今の自分が惨めに見えるなら、それまでに歩いてきた道を冷静に眺めてみることだ。その道を選んだのは他ならぬ自分自身。そのことに向き合わないで、誰かのせいにして、誰かに助けてもらおうとする。それが叶わないとその誰かを責める(これを俗に逆ギレと言う)。原因に向き合うことなく結果だけを嘆き、自分の外のどこかに、そうなった理由を求めようとする。これではどんなに強がっていても、ママの庇護なくしては何一つ出来ない幼児と同じじゃないか。

自分が人に認められたければ、まず自分の行動の責任は自分でとれる人間になることだ。リアルの人生はそんなに簡単に「いいね!」を押してはくれない。これは僕のポリシーであるだけでなく、他人と向き合う時の最低限のマナーだ。話をするのはそれからじゃないか。

Sentence should've been done

気づくことが第一だ。いま何が起きているのか。どうしてこんな苦しみを抱え込むことになったのか。それは何故、僕や彼ではなく、君の掌の上に落ちてきたのか。

吹き荒れる嵐の渦中にいる時、嵐の烈しさにさえ気づけないことがある。雨風にこれでもかというくらい強く叩きつけられ、恐怖のどん底に突き落とされても、そういうものだと思い込まされてしまう。抵抗する気力さえ奪われてしまう。状況はどう考えても理不尽極まりないのに、おかしいと考える思考力も判断力も、もぎ取られてしまう。

考える猶予さえ奪われたまま、柔らかな魂は闇の世界に売り飛ばされた。換金されるために。

文字通り身を削り、見えない傷と消えない記憶に苛まれる闇に置き留められ、いつ終わるともしれない不安に押し潰されそうになる日々。それが刑務所に留置されることなどより百万倍は辛い境遇であることに、逆立ちしても思い至れない輩もいるのだろう。そんな人間に愛や将来を語る資格はない。実体のない薄っぺらな口先に騙されてはいけない。

でも古今東西、よくある話だ。話を聞いた人は大抵口をそろえて言う。何故逃げ出さなかったのかと。

物理的にも精神的にも、身動きが取れなくなってしまうのだ。催眠術にかけられたかのように。あるいは蛇に睨まれたカエルのように。それともうひとつ。理屈を越えて惹かれる自分は否定できないのだ。

だから、「気づくことが第一」だ。何度でも言う。来た道を引き返してはいけない。断じて、いけない。トンネルの中にはさらなる魑魅魍魎が跋扈している。君は今、瀬戸際にいる。僕は君を本気で守る。

Escape

トンネルの中にいた君に、別のトンネルの中にいた僕が声をかけた。もう大丈夫。一緒にここを抜け出して前に歩いていこう。

まだ辺りは暗いかもしれない。けれど手を繋いでいればもう迷うことはない。出口の明かりだってもう見えてきてるんだ。でもそれはまだ微か過ぎて、意識して見ようとしないと見えてこない光かもしれない。

大事なのは方角を間違えないこと。決して道を後戻りしてはいけない。いま大切にしなければいけないことは何なのか見極めることが重要だ。

君を搾取し利用した呪縛を振り切らなければならない。僕も僕をいわれのない奴隷にした呪縛に立ち向かっている。

僕を信じて、僕の手を離さないでいて欲しい。

Obsession

僕の使っている都心のターミナル駅はホームが櫛形になっており、電車のドアは両側が開く。降車専用ホームの上り階段はふつう人が登って来ることはあまりないので、その狭い階段を僕はその日も逆走して階下に向かっていた。すると降り切る直前に人が登ってきた。逆走しているのは僕の方なので僕は壁に貼りつくように道を空けた。するとその人も体を斜めにし軽やかに身をかわした。おかげで僕らは互いに立ち止まる事なく、往来の邪魔となる事もなく、すれ違うことができた。

昔はこんなふうに阿吽の呼吸で街を歩けることがもっと多かったような気がする。自分が年をとったのか、それとも人込みの密度が増したのか?僕はそのどちらでもなく、人々の寛容度が低下しているためじゃないかと思っている。電車でドアの前に身を構えて、人の流れに逆らってでも動こうとしない人。そのポジションはその人の占有物ではないのに、いったん手に入れた場所を頑なに手放そうとしない。

物理的なことばかりではない。一度頭をよぎった思考に支配され、他の考えや可能性を一刀両断に切り捨ててしまう。どう考えても合理的でないけれど、その考えに居座られ、縛りつけられ、自分自身が蜘蛛の巣にかかるが如く絡めとられてしまう。その固執ぶりは周りの人たちにとって迷惑この上ないことだ。本人は、囚われている自覚がないが故に、抜け出す手段を発見できない。その必要にも決して思いが及ばない。無自覚に(当然の権利と言わんばかりに)人を傷つけ、それはエスカレートするばかりだ。

自分のことは認めてもらいたい。でも他人のこと〜相手の気持ち、立場、さらには尊厳〜を認めるなんていうオプションは、そもそも思考回路の中に存在しない。自分は初めから絶対的な王様なのだ。何の因果か、そんな人物から逃れられないとしたら、一体どうしたらいいのだろう。なんでいつも僕ばかりが道を譲らなければならないのだ。理不尽な人間関係が固定化すると抗う気力さえ奪われてしまい、深く暗いトンネルの中にひとり置いてきぼりにされた気分になる。

Big Bang

発せられない問いには、理由がある。改めて聞くのも野暮なくらい答えの分かりきった、当たり前の質問である場合。あるいは、それだけは絶対に聞いてはいけない、禁断の質問である場合だ。

僕にも発せられない問いがある。君と僕との関係って一体なんなのだ、っていうことだ。

君が僕の腕の中でささやいてくれた「大好き」という言葉。今から2ヶ月と10日ほど前の事だった。嬉しかった。天にも昇るくらいに。

と同時に、耳を疑っている自分がいた。えっ⁉︎でもこの子は駆け引きなどするような子じゃない。ならば、この子にとっての瞬間の真実がこの言葉を引き出したのか。

最初、それは質量を持たない点だったのかもしれない。でも確かにそこに重みが生まれたのだ。ならばこれを線に繋げよう。刹那に時間の中の位置を与えていこう。宇宙の始まりだって、こんなものだったはずだ。

そして、いやそのためにこそ、僕もその禁断の言葉を口にする勇気を持とう。決してそれは嘘ではない、前々から気づいていながら、ただ形にすることを躊躇っていただけのものなのだから。

こうして僕(ら)は川を渡った。

質量を持った一点は重力を獲得した。引き合う力が、空間が、そこに生成された。

生まれたての宇宙では、時間さえもまだ柔らかい。一緒にいれば3時間が、半日が、光のようにあっという間に過ぎてしまう。

粒子のように小さな僕らは出会うべくして衝突した。宇宙の誕生という奇跡に立ち会えたことに必然を感じたい。


で、一体君と僕との関係ってなんなのだ?
僕は、いま世の中に現存する言葉では言い表せないくらい素敵で、特別で、非常識で、儚くも奇跡的な関係なのだと思っている。いまある陳腐な言葉で枠を与えてしまうことが憚られるくらい、大事にしなければならないものなのだと考えている。

Acceptance/surrender

今日もまたこの瞬間がやってきた。9時59分59秒。10時になった瞬間、送信ボタンを慎重に押す。受付確認メールが届いたのをチェックし、送信時刻に目をやる。10:00:01。たぶん、大丈夫だ。

時間とカネと精神と肉体。このすべてをジューサーにかけるが如くひとつの壺に入れて撹拌し、混ざり合ったものを渾身の力で絞り上げる。エキストラバージン・オリーブオイルのように滑らかで純度の高い上澄みを、君に送り届ける。搾りかすになった僕は、でも、その君のおかげで再生を果たすことができる。そして、また同じ、この一連の動作を繰り返していく。

いつまで続けるんだろう。どこへつながっているんだろう。たまに僕は不安になる。でもその安寧を欠いた状態を打ち消せるのは、これを繰り返すことだけなのだ。僕がもしこれを怠ってしまったら、それこそ僕はその日一日、魂を抜かれた存在として、オロオロしながら上の空で過ごすことになるだろう。

すると奴は言う。もっと苦しいのは、お前が支えたいと思っているあの人の方だ。それがわかっているのに自分の苦しみを先に立てるのは理屈が違うだろう。

いま、何ができるのか?いま、お前は何を受け取っているのか?無条件に全てを受け入れろ。淡々と、冷静に。それができないのならカッコつけることなんかやめちまえ。

 


君についていくのに精一杯なんだよ